仏教の伝来
6世紀半ばになると、仏教が百済から伝わってきます。
日本には既に八百万の神を祀る神道があったため、すんなり受け入れられる事はありませんでした。
仏教推進派の蘇我氏と、仏教反対派の物部氏との間で対立が起こります。
天皇に仏教は認められましたが、このことで排仏派の物部守屋は神道を奉る思想を持つ天皇へと皇位簒奪を画策します。
しかし、この事がバレて物部守屋は逆賊となります。そして、蘇我馬子と厩戸王(聖徳太子)によって物部守屋は倒されるのでした。
この争いを丁未の乱といいます。
飛鳥時代の政治
蘇我氏と聖徳太子、推古天皇は冠位十二階という階級制度や、政治的な行動規範を解いた十七条の憲法の制定、そして、遣隋使の派遣を行ないます。
大化の改新
厩戸王(聖徳太子)や推古天皇など、有力豪族が亡くなると、蘇我氏の独裁状態となっていきます。
蘇我馬子の息子である蘇我蝦夷(えみし)と孫の入鹿(いるか)の代になると独裁に拍車がかかります。
自らが天皇かのように好き勝手に振る舞うようになります。
陵墓の建造のために厩戸王の一族の領民を動員したりするなど、次第にヘイトが溜まっていきます。
そして、蘇我氏の意のままに動かせる田村皇子を天皇にするために、別の候補であった厩戸王の息子である山背大兄王を倒します。
これで豪族たちの怒りがピークに達し、舒明天皇の息子である中大兄皇子と、神祀を職とする中臣鎌足が蜂起します。
二人は朝廷での式典で剣を外したタイミングを狙い、蘇我入鹿を暗殺します。(乙巳の変)
そして、後に天智天皇となる中大兄皇子を中心に行われた政治改革を大化改新といいます。
白村江の戦い
そのころ、朝鮮半島では、高句麗、百済、新羅が覇権争いをしていました。
そして中国大陸は唐が統一を果たします。
朝鮮半島北部に位置する新羅は南部の百済と唐に挟まれる形となり、ついには唐と同盟を組むことになります。
百済に飢饉が襲ったタイミングで新羅と唐の同盟軍が攻め込みます。一気に不利となった百済は日本に救援を求めます。百済との外交関係と今後の利権を考慮し、日本は救援に応じます。
白村江で唐・新羅連合軍と遭遇し、開戦します。数では百済と日本軍の方が勝っていましたが、唐・新羅軍の圧倒的な軍備と統一された指揮系統を前に大敗を喫します。
白村江の戦いは日本初の敗戦となりました。
壬申の乱
当時皇位継承は親子より兄弟が優先されていました。しかし、天智天皇(中大兄皇子)は息子である大友皇子への皇位継承します。
これが発端となり、天智天皇の弟である大海人皇弟が反旗をひるがえします。
先の白村江の戦いの惨敗で豪族達は疲弊しており、また朝廷への反発も強まったことから大海人皇弟側につく豪族も多く、この反乱は大きな内乱となります。
そしてこの戦いに勝利したのは大海人皇子でした。
大宝律令
大海人皇子は天武天皇となり、豪族中心の合議制であった政治は天皇中心の政治に変えていきました。
また、新しい身分制度や律令の編さんに着手しました。
そして文武天皇の代で刑部(おさかべ)親王・藤原不比等(ふひと)の手によって大宝律令が制定され、日本の律令制度が出来上がっていきます。
そして世は奈良時代へと変わっていきます。
次は奈良時代をまとめたいと思います!