源平合戦で平氏を滅ぼし、政治の実権が源氏に移った1185年以降を政治の中心が鎌倉で行われたことから鎌倉時代といいます。
幕府の設立
1185年、平氏を滅ぼした源頼朝は後白河天皇から文治の勅許を受け、全国の軍事と警察、そして行政権を手に入れます。これが鎌倉幕府の始まりです。この頃は幕府は朝廷の下部組織でした。
北条家の台頭
1199年に源頼朝が亡くなって以降、幕府の実権を握ったのは頼朝の妻である北条政子とその父の時政でした。
承久の乱
内裏で大火災がおこり、再建のため強制労役を発しましたが、幕府の地頭たちから猛反発を受けます。また、不正行為を行った御家人を擁護したりと、次第に幕府は朝廷の思い通りに動かなくなります。
1221年、ついに後鳥羽上皇は倒幕のために動き出します。これが朝廷と幕府の争いである承久の乱となります。
この戦いは幕府側が圧勝し、後鳥羽上皇は流刑に処されます。
以降、日本の統治権が朝廷から鎌倉幕府へと移ることになります。
蒙古襲来
その後しばらく平和な時期が続きます。その影響で戦を生業としている武士は弱体化していきます。
そんな中、モンゴルから属国になるようにと国書が送られてきます。これを拒否するとモンゴルから軍隊が2度にわたって襲来します。激しい戦闘の末、幕府は撃退しますが、防衛戦だったため戦った武士たちは所領の恩賞が受けられず不満が溜まっていきます。
鎌倉幕府倒幕
承久の乱以降、大きな争いはなく、恩賞のないモンゴル帝国との防衛戦のみで費用はかさみ、土地を得られずに武士たちは貧しくなっていってしまいます。幕府は御家人が売却した土地などを無償で返還させる永仁の徳政令をだすなどして対応したが、こうなると御家人への融資はされなくなり、逆効果であった。こうなると治安は悪化していき、悪党とよばれる幕府に反対する武士たちが出現します。
状況を見た後醍醐天皇は朝廷復権のチャンスと倒幕計画をたてます。これは密告により発覚。1度目は釈明して許されますが、2度目は隠岐へと配流されます。
そして時を見て陰岐を脱出。足利尊氏と新田義貞を味方につけ鎌倉を攻め落とし、1333年ついには鎌倉幕府は滅びました。
その後、足利尊氏が征夷大将軍となり室町幕府を起こします。
次は室町時代をまとめていきます。