710年に平城京に遷都してから794年に桓武天皇が平安京に遷都するまでの84年間を奈良時代とよびます。
当時の政界では中臣鎌足の子孫である、藤原氏が力をつけていました。農業では、国が土地を貸し出す口分田制度では食料が足りなくなってしまいます。打開策として自分が新しく開墾した土地はその土地を三代まで私有できる三世一身法を施行。しかし返す頃にはメンテナンスされずに荒れてしまったため、期限なく永久に私有化できる墾田永年私財法を施行し難を乗り越えました。
蝦夷政策
東北に住み朝廷の支配に従わない勢力を蝦夷(えみし)と呼び、手を焼いていました。
特に阿弖流為(あてるい)を中心とする岩手県の胆沢(いさわ)地方の勢力が強く、五万の兵を持ってしても落とせずにいました。
蝦夷を征伐する役割である征夷大将軍に坂上田村麻呂が任命されると、過激派との武力衝突を行いながらも、原始的な生活をしていた蝦夷に農業技術を教え懐柔していきます。
そうして盤石な体制を整え、胆沢にも城を築づき、遂にアテルイを降参させます。
こうして東北も少しずつ朝廷に取り込まれていきました。
仏教と政治
737年頃、天然痘が流行し、多くの人が亡くなりました。藤原氏をはじめとする有力氏族もまたこの災害にみまわれ亡くなります。また、大地震や飢饉など天災が連続して日本を襲います。これを鎮めるために奈良時代では鎮護国家という仏教が国家を安定させるという思想のもと、大仏やお寺の建造を朝廷の主導で行なっていきます。
仏教と政治が密接になり、道鏡をはじめとする僧侶たちが力をつけていきます。
道鏡は称徳天皇に「道鏡が皇位に就くべし」と託宣を受けたとして、皇位を得ようとします。しかし、この託宣が偽物だとわかりこれは退けられます。皇族以外が皇位を得ようとしたとても重大な事件となりました。
そして平安時代へ
こうした仏教政治での混乱を避けるように仏教勢力の及ばない地へと都を移していきます。
そして平安京へ遷都以降は平安時代へと突入していきます。